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カンボジアへの卒業旅行 武野 愛 私は、2006年1月20日から24日まで、友人とカンボジアのアンコール遺跡に行ってきました。世界遺産に数えられる遺跡や町並み、山河を巡りたいという熱い思いが私にはあります。これまでは、国内を中心に回りましたが、大学を終えるこの時期に、アンコール遺跡とその周辺に住む人々の暮らしを見たいという衝動を押さえ切れず、貯金をおろして出かけたのです。遺跡もすごかったのですが、目で見た街の様子について書くことにします。 行くまでは、発展途上の国なのでライフラインが全く整っていない国というイメージが私にはありました。 ところが、現地に行ってみると、都市シュムリアップは、観光客の為にライフラインの発展に力を入れていました。シュムリアップ空港から遺跡の辺りは、道路が整備されています。 しかし、シュムリアップの中心部には信号が2つしかありません。交通手段は、車・バイク・自転車です。バイクや自動車は日本製が多いように見えました。日本には交通ルールがありますが、カンボジアには特に決まりがないそうです。したがって、クラクションの鳴らし合いがとても多い。 また、電気は、中心部でもほんの少ししか通っていません。ホテルは自家発電です。大きな通りから外れるとライフラインが全く整備されていません。 水道工事の為、街が水浸しになっていたのも見ました。日本では、水を止めて工事をするのでしょうが、そのあたりの感覚が違うようです。 去年の3月から9月まで愛知県で行われた「愛・地球博」の外国パビリオン「カンボジア館」で働いていた方と友達になりました。ツアーの自由時間を使って、「虐殺慰霊塔と地雷博物館」に案内してくれました。この二つは整備されていない道を通っていきます。道端に座ってビニール袋に入れた飲み物を飲んでいる人、「1ドル頂戴」と言う大人や子供にも会いました。都市部は発展し始めていますが、それについて行けない人もいて、貧富の差が出始めているように感じました。 虐殺慰霊塔と同じ敷地に寺もあります。お坊さん(私と同じぐらいの年)の中には、内戦後、日本人のボランティアから日本語を学び日本語が話せる人がいます。またこの辺りに住んでいる人達が、お坊さんから日本語を学んでいます。日本人の私に話かけてきた人は、目がとても輝いていました。皆、夢を抱いていて、遺跡のガイドになりたいという人もいました。ここでは、ガイドはお金を稼げる仕事の1つになっているのだそうです。寺には、たくさんの子供もいました。ある子が、私の履いているズボンとその子のズボンを交換して欲しいとジェスチャーで伝えてきました。私は、ぼろい服を着ていったつもりでしたが、カンボジアの人から見ると良い服を着ているように見えるみたいです。 今回の旅行は遺跡めぐりが中心でしたが、移動する際に整備が続けられる街並も見ることができました。しかし、農村部は後回しという感じがしました。 カンボジアの国づくりはこれからです。誰もが幸福を享受できるように、貧富の差が出ないように、この国を導いて欲しいものです。そして、日本人の私たちが、この国に対してどんな協力が出来るか、考える機会を与えてくれた貴重な旅行にもなりました。 オーストラリアへの海外研修 王 歓 1、研修先:オーストラリアのシドニー大学、シドニー州立図書館、メルボルン大学、メルボルン州立図書館、キャンベラ市 2、研修期間:2006年9月10日〜2006年10月8日 3、研修内容:今回、朝日大学法学研究科学生海外研修のチャンスを与えて頂きまして非常に感謝しております。下記の内容を御覧頂きますようお願い申し上げます。 @シドニー州立図書館やメルボルン州立図書館で、オーストラリアの歴史に関して勉強しました:何万年も前からアボリジニが住んでいた。その人達はオーストラリアの先住民と言う。大航海時代、ヨーロッパの探検家は伝説の「南の大陸」を求めて、大海に出た。17世紀始、オランダ人によって発見されたオーストラリア。その後、タスマンらも訪ねるが、注目を浴びるのは、1770年イギリスのキャンプテン・クック(旧所:現在のメルボルンである。)がエンデバー号でシドニーの近くに上陸してからのこと。イギリスは、1788年、ニューサウスエールズを囚人流刑のための植民地とすることを宣言。最初の総督はアーサー・フィリップである。それからは、白人の文化が広がっていったが、アボリジニは殺されたりして急速に滅亡した。(現在、指定観光地でアボリジニ人しか見えない。アボリジニ人と一緒に写真撮るコーナーがあった。)オーストラリアという呼び方は南方を意味するラテン語「オーストラリア」から来ている。1814年に、イギリスの探検家フリンダースが、それまで新オランダかニューサウスウェ−ルズとか呼ばれていたことの大陸を。「オーストラリア」と名づけたと言われている。 シドニー市内を回った時、シドニー人が殆ど見付けなく、沢山の外国人(東南アジア人)が街を歩いていた。なぜそんな風景になったのかは、戦後、オーストラリアは移民を増やす政策を進め、初めはヨーロッパに限っていたが、後は中近東、アジアからの移民も受け入れるようになったからである。1970年代半ばごろから、「白豪主義」にかわって、移民の持つそれぞれの文化の共存を認める「多文化主義」を推進してきた。 Aキャンベラ首都の国会、高等裁判所見学:オーストラリアの政体は立憲君主制になり、元首:エリザベス二世英国女王Queen Elizabeth。二院制制度は上院と下院を分けていた。 上院:議員数は76名で、6つの州から各12名、2つの特別地域から2名ずつが選出される。任期は6年で、3年毎に半数が改選される。選挙は比例代表制で各州、特別地域がそれぞれ1つの選挙区と見なされる。このシステムにより、幅広い様々な政治意見を聞くことが過半数議席を確保することはありません。 下院:議席数は上院のほぼ倍に当たる。正確な議席数は人口に左右されるが、通常約150議席である。選挙ではオーストらルア国内が有権者数がほぼ同一になるように区分され、各選挙区から1名の議員が選出される。下院議員は3年間継続が可能であるが、その後は総選挙が行われなければならない。 Bシドニー大学の図書館、メルボルン大学の図書館でオーストラリアの会社法を自習した。その中の一部のみ取り上げる。オーストラリアの会社倒産手続きに関しては、オーストラリア会社法にその定めがある。会社法は、任意管理手続、整理手続、清算手続及び実質的な担保権実行手続たるレシーパーシップの4つの倒産手続について定める。任意管理手続は、主に企業の維持再建を図ることを目的とする手続として、1992年〜1993年に新設された。管理人選任により開始される。管理人は、一般に会社の取締役により選任されることが多い(このほか、会社財産の全体、実質的に見て全体に担保権を有する者「substantial secured creditor」も管理人選任権を有する。)管理人選任の効果として、担保権実行は一般に禁止されるが、substantial secured creditorは管理人選任から10日間以内であれば担保権を実行できること、会社が使用する財産の所有者・賃貸人に取戻権を使行できないこと、債権者の取締役に対する保証債務履行請求が禁止されること等が特に注目される。管理人は債権者集会において、再建の見込みがあるとして会社整理証書(deed of company arrangement)を締結すること、清算手続に移行させること、任意管理手続を終結し取締役に経営権を回復させること、のいずれかを提案しなければならない。 以上、研究外、シドニー市内のオペラハウスなど名所を観光しに行った。自分の知識の蓄積となったし、国際視野、見聞を広めることでき、英語能力は少なくても、リスニングの上達になったと思う。 朝日大学の指導教授及び教授各位、職員の皆様のお陰で、非常に良い経験をさせて頂きましてありがとうございました! |
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